週刊朝日 10月25日号

【マリコのココまで聞いていいのかな】

音楽も演技も重圧な印象が強い石橋凌さん。
昨年9月11日のテロに対するこだわりから、
イタリア料理店での修行時代、
そして松田優作さんの思い出まで、
話題は多岐にわたります。
はじめは緊張していた林さんでしたが、
あまりのかっこよさにしびれっぱなしです。
石橋凌

★ミュージシャン・俳優
いしばし・りょう 1956年、福岡生まれ。77年、バンド「ARB」のボーカルとして参加、翌年
「野良犬」でデビュー。15枚のアルバムを出したが、90年に活動休止。その後、映画を中心に俳優活動に。98年、ARBを再結成。この夏にはソロ活動を開始。
最新作は「忘れてはイケナイ物語り」。映画の主な出演作は「ア・ホーマンス」「クロッシング・ガード」「キッズ・リターン」など。
ロッカーの方にお目にかかるの初めてなので、緊張しちゃって・・・・・・。
石橋 ハハハ、緊張しないでください。
石橋さんて、役柄のせいかもしれませんけど、俳優になるきっかけを与えた松田優作さんのイメージと似てますよね。松田さんはおっかないというイメージがありますけど、石橋さんも町中で気軽にサインを頼める感じゃないですよ。
石橋 いや、けっこう気軽にしますよ。状況を考えない人には、お断りすることもありますけど。
今回、「忘れてはイケナイ物語り」というCDを出されましたけど、これは去年の9月11日のテロがきっかけになっているんですか。
石橋 それは大きいですね。
戦争を扱った曲ですけど、ラブソングといえばラブソングですよね。「ラブソングを歌わないと武道館コンサートはできない」って、昔だれかに言われたそうですね。
石橋 「社会的、政治的な歌は日本じゃ売れない。ラブソングじゃなきゃ」と何回も言われてきましたけど、戦争を歌うって、自分にとってはラブソングのつもりなんです。
昔の戦争とあのテロの一つの違いは携帯電話ですよね。携帯で声を聞きながら家族が死んでいくわけですから、「最後のことば」という曲はそのあたりを歌ったのかと思ったんですが・・・・・・。
石橋 ビルが崩壊する直前、ある男性が携帯で家族に電話して、それが留守電に録音されて「アイ・ラブ・ユー」で電話が切れたというニュースがあったんです。ハイジャックされた飛行機の中から携帯で家族に電話したケースもいくつかあって、やっぱり最後は「アイ・ラブ・ユー」なんですよ。
日本人だったらなんて言うんでしょう。ジャンボが落ちたとき、座席のエチケット袋に「いい人生だった」とか「子供をたのむ」とか、走り書きした人がいましたけど。
石橋 テロを仕掛けたのも人間。報復するのも人間。何の理由もなく被害を受けて「アイ・ラブ・ユー」と家族に伝えるのも人間。人間として本当に強いものはと考えたら、自分の命が絶たれそうなのに「アイ・ラブ・ユー」と言える人間じゃないかと思えるんですよね。
ちなみに9月11日はどこにいらしたんですか。
石橋 タクシーの中でニュースを知りました。僕は男ばかり5人兄弟のいちばん下なんですけど、いちばん上の兄貴がニューヨークに住んでまして。でもその日は別の州に行ってて・・・・・・。ちょうど去年は20年以上住んだニューヨークを離れる年で、テロが起きる前に日本人コミュニティーの人たちがお別れパーティーをやってくれたそうなんですが、なかにはなくなった(旧)富士銀行の人たちがいたらしいです。
まあ、そうだったんですか・・・・・・。
今度のCD、黒田征太郎さんとのコラボレーションで、黒田さんは70年代から日本のカルチャーに対していろいろ発信してきた方ですが、お年は石橋さんの方がずっと下なんじゃないですか。
石橋 中学生のとき、黒田さんがコメンテーターとして出ていた「11PM」を見てたんですよ。色っぽいおねえちゃんが出てくるんで親の目を盗んで(笑い)。そのときに、おもしろいこと言うおじさんだなと思ってたんです。上京した後、大阪のテレビの仕事があって、そのときの司会が黒田さんだったんで、「ファンでした」とご挨拶して。実はすぐ上の兄貴は子供に「征太郎」という名前をつけたんで、それも伝えました(笑い)
私も昔、猫に「黒宝征太郎」という名前をつけたんです。あ、スイマセン、甥御さんと一緒にしちゃって。(笑い)
石橋 ハハハ。黒田さんは、野坂昭如さん原作の『戦争童話集』をもとに絵をかいて、いろいろなミュージシャンが音をつけて、俳優がナレーションをつけるというイベントをなさったんですけど、僕はそれをテレビで見て、また感動しましてね。「いつかライブペインティングができないでしょうか」という話をして、それで、2年前と1年前にご一緒したんです。黒田さんが後ろで大きなキャンバスに絵をかいて、僕が歌ってというコラボレーションで。
はい。
石橋 黒田さんは去年の9月11日、ニューヨークのアトリエにいらしたそうで、ショックが大きくて、一時は絵をやめようかと思うぐらい無気力感に襲われたというんです。でも、自分は絵で訴えていくしかないと思い直して、毎日、絵を一枚かいては大阪の友人に送ったんですね。でも、帰国して自分のその絵を見たら、見事にスタンプで塗りつぶされていたんですよ。
えーっ、昔の検閲みたいですね。
石橋 頭にきて、スタンプを押した郵便局員をぶん殴ってやろうと思ったそうですけど、冷静になったら、スタンプを押したのはどんなやつなんだろうと興味がわいてきて、その郵便局員と話したいと思って、郵便局をずっとあたったそうなんです。
見つけ出したんですか。
石橋 いま、三人まで絞られたらしいです。「テロはアメリカ人にはあまりにショックで海外に出すことがいたたまれなかったんじゃないか」と言ってました。
戦争へのこだわりは、ご両親からお話を聞いたりしたんですか。
石橋 林さんと僕、同世代ですよね。
私の方がちょっと上なんです。悲しいですけど(笑い)
石橋 僕は中学一年の時に父親が病気で死んだんです。おふくろからは、お父さんは戦争に2度出征してつらかったんだとは聞いていたんですけど、実感がないんですよ。それよりも、小中学校のときに聴いたビートルズとかボブ・ディランとかジョン・レノンとかの音楽のほうが、学校やおふくろが教えてくれるものよりも考えとか価値観がためになったんですね。
そのときから音楽をやろうと決めてたわけですか。
石橋 中学にときの夢は、映画評論家でしたね。
あら、淀川長治さんですか。
石橋 はい、淀川さんが好きで。
それがどうして音楽のほうに?
石橋 もともと小学校、中学校とロックミュージックも聴いてて、高校でバンドを組みましてね。福岡に「照和」というライブハウスがあるんですよ。
井上陽水さんやチューリップが出た有名なライブハウスですね。だけど九州ってスターをたくさん輩出していてすごいですよね。博多で人気者になったら日本の人気者になれるってホントですか。
石橋 それは福岡の人が言ってるんでしょう?僕ら久留米の人はもっと謙虚ですよ(笑い)。で、僕はその「照和」に高校2年から出始めたんです。そのときは東京に出るよりもステータスがあったんですよ。
凄い人気だったんですね。
石橋 進学校だったんですけど、担任の先生に「プロになりたいんで、学校をやめてもいいだろうか」と言ったんです。どうせ授業にも出ないで楽器がある部屋で曲を作ってましたし、赤点ばっかりですしね。僕、親父を亡くしたのは12歳のときなんですけど、そのことを歌った「12の頃」というバラードを先生に聞かせたら、涙を流して聴いてくれたんですよ。
まあ、すばらしい先生ですね。
石橋 「俺も子供のころに親父を亡くしたので、歌の気持ちがよくわかる。ただプロは甘くないから高校だけは出ておきなさい」と言われて、いちおう在籍したんです。卒業してからは2年ぐらいバイトをやりました。ビルの窓拭き、デパートの配送、沖仲仕。その間、2度ほど東京からお誘いはあったんですよ。ただ、「ソロでということだったんで断ってたら、ぱったり誘いがなくなりまして。
すごい友達思いなんですね。ふつう、「ソロで」と言われたら、行くんじゃないですか。
石橋 バンドに憧れてたんです。そして最後に働いたのがイタリアンレストラン。マスターが向こうで修行を積んだ人で、本格的な店だったんですね。そこに皿洗いとして入って、2年弱いたんですけど、いつの間にかつくる側に回されましてね。当時は珍しかったんですけど、ピザの粉をイタリアから輸入して、こねて、イースト菌を発酵させて。マスターに「俺が修行したシチリアに店で修行しないか。音楽はあきらめろ」と言われて、自分の中では8割ぐらい、行こうかなと思ってたんです。
あら、そうなんですか。
石橋 で、そのころ九州のラジオ局のディレクターから電話がありまして、その人が陽水さんとかチューリップを東京に出したんですけど、「いま、ARBというバンドが東京でできつつあって、ボーカルのオーディションを受けないか」ということで。それでマスターに「最後のチャンスだと思う」と言ったら、「行ってきなさい」ということで。
そのときオーディションに落ちていたら、今ごろは・・・・・・。
石橋 白い服を着てますね。(笑い)
素敵なシェフがいるお店として、OLの話題になっていたかもしれない(笑い)
石橋 でも、アルバムをつくったときに会社とぶつかって1年半ぐらいでリストラされたんですよ。メンバーも5人から3人になって、住居も没収されて。それからの生活が悲惨だったんです。
私、すごく売れたというイメージしかないんです。ひとつの時代を築かれたじゃないですか。
石橋 僕の中では売れたという記憶がなくて、思うところにはいけなかったですね。自分たちでオフィスをつくって、歌いたいことを歌おうと、ライブハウスを回ったんです。そして小ホール、中ホール、大ホールといけたんですけど、それでも自分が思う伝わり方じゃなかったですね。「社会派バンド」とか「メッセージバンド」とかよく書かれて、不本意だったんです。
きょう、若い人たちと昼間会って、「石橋さんとお会いする」と言ったら、「わっ、すごい!」とか「私、CD持ってる!」とか言ってましたよ。
石橋 その人たち、うちの親戚じゃないでしょうか。(笑い)
ワーワー、キャーキャーされるのはお嫌いなんですか。
石橋 うちの場合、男が9割くらいですから。「黄色い声が飛ぶ」ってよく言いますけど、うつはどす黒い声が飛んで。(笑い)
じゃあ、お花とかお人形のプレゼントもないわけですね。
石橋 ないですね。ファンレターも、瀬戸内寂聴さんに届くような内容なんですよ(笑い)。「これからの人生、どう生きたらいいでしょうか」とか。
それは意外でした。もっと華やかだと思ってました。
石橋 歌のテーマが戦争とかワークソングですから、そのうち働いてる人たちも来始めたんです。見てると、自分たちのキャラクターとか楽曲に惚れてるんじゃなくて、学校の中での位置、工場の中での位置、会社の中での位置、それが僕らの音楽業界の中での位置に近いんじゃないか。そういうことに対する共感じゃないかなと思ったんです。ただ、もう一歩茶の間に入っていけないというジレンマはあったんですね。いちばんでかい壁にぶつかったのが25、6歳だったんですよ。それでまわりを見渡したら、相談できるのは優作さんしかいないと思ったんですね。
石橋さんって松田さんの衣鉢を継いだという印象がありますよね。
石橋 優作さん、ずっと話を聞いてくれまして「日本ではセルフプロデュースしていくしかない。土を耕して種をまいて水をやって、を繰り返してくうちにだれかと出会って、そのときにはじけるしかない。ただ、音楽よりも映画のメディアのほうがでかいから、映画で名前と顔を売らないか」と言ってくれたんです。それから1年もしないうちに「ア・ホーマンス」(松田優作監督)という作品をもらいましてね。
映画づくりのインパクトは強かったんですか。
石橋 音楽の世界で受ける刺激と全然異質だったんですね。ものにこだわってる人たちがいる、自分は間違ってなかったということを奇しくも映画の現場で確認できたんですよ。それでもう一回ARBを新たな気持ちでやれると思ったんです。
松田優作さんが亡くなって、もう何年に・・・・・・。
石橋 去年、十三回忌をやりました。
優作さんの病気はまったく知らなかったんです。9月の誕生日にお会いしたのが最後で。
お元気だったんですか。
石橋 ええ。優作さんの家で劇団の人とかと一緒の楽しいお酒だったんです。「ところでおまえ、芝居は?」って聞かれたんで、「実はARBのほうが忙しくて」と言ったら、久しぶりに一喝されましてね。それまでの楽しい場が変わるぐらい。「ダメじゃないか!もっと本腰を入れて俳優をやれ!」って。でも帰るときに玄関まで来てくれて、ニッコリ笑って「頑張れよ」と言って握手してくれました。それが最後だったんです。
そうだったんですか・・・・・・。
石橋 そのあと自分で総括して、音楽をいったんやめて俳優で頑張ってみようと思ったんです。優作さんはハリウッド映画の「ブラック・レイン」で成功されて、あと3本内定してたんですが、それは病床でご存知だったみたいで。そういう優作さんの気持ちを思ったときに、いたたまれなくなったんですよ。家にあるCD、レコード、全部押し入れにしまい込んで封印して。それから7年間まったく歌いませんでした。
たいへんまじめというか、両方うまくやっていけばいいじゃないかとふつう思いますけど、それは許せなかったんですか。
石橋 ええ。それまで音楽でメシを食ってきて、34歳からのスタートというのが正直言って怖かった。どちらかに絞らないとダメだと思ったんですね。それで90年に頭を真っ白にしなきゃと思って、1ヶ月間、シベリア鉄道で旅をして、意識を切り替えて、映画向きの体につくりかえました。
ロック向きの体と、映画向きの体とどう違うんですか。
石橋 だいたいロッカーは細いほうがサマになるじゃないですか。
横を向いたときにおなかが出てたりすると、ちょっとがっかりしますよね(笑い)
石橋 アメリカの映画に出て向こうの俳優さんと並んだときに向こうの人はたっぱはなくても横がガッシリしてるんですね。で、並んでも存在感が出るように肉体改造しまして。それで俳優業に専念して、「海外に向けて発信できる表現者にならなければ」という優作さんの言葉どおり、アメリカでの仕事がいくつかできましたし、向こうの俳優組合にも入れて。それが一つの達成感というんですか、これならお墓に報告できるんじゃないかと思ったんですね。
もともと大きな役をいくつもなさって、NHKの大河ドラマににもお出になってますけど、俳優に専念して地位を築いたから、また歌ってもいいかな、という気持ちになられたんですね。7年ぶりに。
石橋 98年に音楽活動を再開してARBで全国ツアーをしたんですけど、昔からのファンが結婚して子供さんを連れてきたり、10代の人が来てくれたり、層は広がったんです。自分の中で抜けたかなという気がしました。アメリカの人たちが、ジョン・レノンの「イマジン」とか「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を歌いながらデモしているというニュースを見たときに、やっぱり音楽は力があると思いましたね。
日本のアーティストっておとなしいですよね。テロのしてもよその国のことだと思ってるみたいで。
石橋 今度のような歌を歌うと「左寄りか」と言われたり精神論的なことを言うと「右寄りか」と言われたりするんですよ。僕としては右でも左でもなく、音楽を通して対話をしたいだけなんですけどね。「俺はこう思うけど、君はどう思う?」。それだけですよ。それ以上言うと、思想家になったり扇動しちゃったりすることになる。
ほんとそうですよね。
石橋 あらためて「イマジン」の歌詞を見ると、見事にあのテロの根幹を歌ってるんです。「宗教とか国歌がないことを想像してごらん。想像したら争いなんて起こるはずがない」と一ロッカーがずっと昔に歌ってる。
また読み直してみます。・・・・・・ところで石橋さんその雰囲気からしますと、お酒はすごくお飲みになるんでしょうね。
石橋 そうですね。
ケンカなさったりは?
石橋 23、24、25歳あたりは、飲むと暴れてましたね、情けないぐらいに。
いまは人間がまるくなられて。
石橋 アハハハ、40にもなって暴れてたら、ちょっとね。

その後いかがですか

最近俳優のイメージが強い石橋さんですが、本当に歌が好きで好きで仕方ないんですよね。新しいCDの話を、本当に熱心にお話になります。そのお話が、ものすごく真面目なことに昔とちっとも変わってらっしゃらないんだなあと嬉しくなりました。けれども声は変わられたみたい。
しみじみとやさしい声で、しっとりと歌われています。
 そして声もいいけど実物もいい。セクシーで男っぽくて、私はずうっとドキドキしてました。
写真撮影のために立ち上がると、ふわーっとあたりに強いオーラのようなものが立ちます。日本人にしては珍しい強烈な男っぽいにおいに、きっとハリウッドの人たちもとびついたのでしょう。本当にカッコいい。テレビや映画で見た時も素敵と思ったけど、実物の方がずぅーといいと、全くミーハーになる私です。が、奥さまが原田美枝子さんじゃ、かないっこないか・・・・・・。