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ARB解散の真相
6月16,17日 日比谷野音で突如解散宣言をしたARB。
いったいARBに何があったんだろうか!?
ARB解散の真相を石橋凌に聞いた!!
6月16,17日 日比谷野音で突如解散宣言をしたARB。この突然の解散は石橋凌個人のある決意からの結果であった。昨年11月6日、日本が世界に誇れる偉大なる表現者、松田優作氏が亡くなられた。この松田氏の死が石橋凌に大きな変化をもたらしたのである。
”自分にとっての松田優作という男はある時は兄であり、師であり、何でも話せる尊敬できる友だった”と語っている。松田優作という大切な人を失って石橋凌が決意した事は”松田優作の遺志をを継ぎたい”ということだった。松田氏が死んだ39歳までに、自分も役者としての決意をつけたいと。そのためには色々考えた結果、音楽をやめ役者一本でゼロからスタートしようという答えだった。
石橋凌にとって松田優作との出会いはまさに運命的なものであった。石橋自身インタビューで何度も言っていることだが、もし松田優作に出会わなかったら今のARBは無かったと。そして、”表現者”としての今の石橋凌も存在しなかったと。石橋凌の話を聞いていると、松田優作との出会いから死に至るまで全て今回の決意につながっている。石橋凌にとって松田優作との出会いはは偶然ではなく必然であったのだろう。松田優作の出会いから現在に至るまでの経緯をかたってもらった。
松田優作が自分を生き返らせてくれた。
だからここまで歌ってこれたんだ!!
「優作さんと初めて会ったのは、ちょうど『イエロー・ブラッド』を出した頃(’84年)で、自分の中で厚い壁にぶつかった時期だった。ツアーもホールクラスをやるようになって、アルバムも定期的に出していけたから、経済的には安定してたんだけど、何か気持ち的に続けていけなかった。それで、この先、生き残っていくにはどうしたらいいかって考えたら3つの方法が出た。プロモーションで金をバラまく。コミック的要素を入れてお笑いバンドみたいになる。または向こうの楽曲をパクって日本語に変えてシングルとして出す。この3つが生き残るための策みたいに見えたわけ。でも、3つともやりたくなかった。今までやってきたやり方でやりたかったし。家の中で1人暗く落ち込んでいたんだ。その時に、元キャロルの相原誠から電話があって、”落ち込んでいてもしょうがないから飲みに行こう”って誘ってくれた。それで飲みに行く前に汗を流そうって、アスレチック・ジムに行ったんだ。そこに優作さんと「竜二」を作った金子正次さんが来てたんだ。で、マコちゃんが2人を俺に紹介してくれたの。その時に、今自分が抱えている問題を全部ぶつけてみようと思った。レコード全部聞いてもらって、ライヴにも来てもらって、今の気持ちを全部話した。そうしたら”お前の言っていることは分かった。ただそれは映画の世界でも同じだよ。この国にはプロデューサーはいない。セルフ・プロデュースの国だから。自分で土耕して種まいて刈り取っていく作業を持続していく中で、見つけていかなければならない。でも、このままいったら、日本によくありがちなアンダーグラウンドのバンドで終わるだろう。だから、いつか映画というメディアを使って顔を売らないか”って。それで、その半年後に『ア・ホーマンス』があった。モチロン映画は凄い好きだったし、スケベ心もあった。スケジュール的にかなりきつかったんだけど、自分自身の中で凄い活性化出来たね。それでバンドに白浜が入ってきたりして、レコーディングもコンピューター使ったりとか新しいことを試みていった。批判とか中傷を受けたけどね。でも俺の中で”もう一回やれる!!”ってなったわけ。映画に出演したのをキッカケとして俺自身が蘇生出来たんだよ。オーバーかも知れないけど生き返れたんだよ。で、大河ドラマまでやるようになった。それで大河ドラマで顔を売る作業は終わったなと思った。正直言ってレコーディングやツアーの合間をぬって撮影現場にいくっていうのは辛かったからね。もう、こういうことはしたくないなって。でも、映画に対してのスケベ心が段々本気にもなってきたんだ。だから、スケジュールに余裕があって、いい作品であればやっていこうと。それで『Aサインデイズ』の話がきた時、ちょうどツアーの前で空いていたので引き受けたの。これはプロパガンダじゃなくて、自分が役者として通用するかどうか試してみたかった。これでコケたら音楽かなって。で、やってみたら自分の中で洗練された部分もあったし、手ごたえもあった。これだったら時間をコントロールしながら両方やっていきたいなと思ってね。
それで去年オーストラリアにレコーディングに行く前にメンバーとスタッフと話し合った。みんな30を過ぎて、カミさんも子供もいる。あと、10年か20年ARBをやっていくために、スタンスを仕切り直そうって。オーストラリアに行っている間にみんな1人1人考えようって。帰って来たらみんな意見出しあってミーティングをしようって。それで、これから、10年20年やっていくためのミーティングをしようという矢先の11月6日だった。その11月6日の日、シンコーから出版した「渾身」の本が出来上がったということで4人で打ち上げをやっていたんだ。それで久し振りに相原誠がやっている店に飲みに行こうということになってね。マコちゃんの店から家に電話をした。今日は遅くなりそうだからって。そしたら優作さんの死を聞いたんだよ。俺そんなに悪いって全然知らなかったから、本当に突然だったね。『ブラック・レイン』の撮影は体調が悪いから、休み休みやっているっていうのは知ってはいたけど・・・・・・。
俺を優作さんに会わせてくれた男の所で、別れを知ったわけ。なおかつ優作さんと初めて会った時、一緒に紹介してくれた金子正次さんの命日というのも11月6日なのね。そういうのが後になって分かっていくんだけど、自分の中では偶然と思いたくない部分が凄くあるんだよ。優作さんがよく話してたことで”凌、世の中に偶然とか不思議ってないんだよ。全部必然でまわっているから”って。そういうことを仕事の話から普通にしてたからね。11月6日を境に優作さんのことを冷静に考え始めてみた。無くなる年前ぐらいは密に会ってたしね。その頃話したこととか、言ってくれた言葉のニュアンスとか一つ一つ思い出してみたんだ。そうすると全部つながっているんだよね。自分が今こうしてこれたということに。『イエロー・ブラッド』の時に優作さんに会えたから、ここまで自分が歌ってこれたというのは正直言ってあるよ。あれがキッカケで、もう一回やれる自信がついたというか。キャパシティが増えたとか、レコードが多く売れるようになったとかじゃなくて、精神的な部分でももの凄くラジカルになれた。
今、一つの夢としてデ・ニーロに会いたい。
会って優作さんのことを話したい。
「ブラック・レイン」で成功して優作さん本当にうれしそうだった。”映画よかったですよ”って言ったら”あんなもんじゃないよ。まだまだこれからだよ”って話してた。映画の父の国にこれてうれしいって。実際その後に3本のアメリカ映画の話がきてたんだ。一つは監督のリドリー・スコットから、一つはマイケル・ダグラスから世界で通用するからアメリカに来いって。俺が紹介するからって。それでもう1本が、優作さんが尊敬してたロバート・デニーロが「ブラック・レイン」を見て、こいつと組みたいって。そのことは全部本人は知っていた。それで病院のベッド上で自分がこんなになって悔しいって。無念でしょうがないって、言ってただろうし。その悔しさっていうのは凄かったんだろうし、そのことを思うと胸が熱くなった。
一言で言ったら”松田優作の遺志を継ぎたい”何とかその”念”をはらしたいって気持ちが俺の中で出てきたんだ。じゃあ、その遺志の継ぎ方っていうのをどうしようかって。自分の中でずっと自問自答をくり返してたね。それで答えとして4つの方法論が出た。今まで通りバンドを続けながら、役者への比重を多くして、役者をガンバリながらバンドをやっていく方法。ソロになって自由に音楽活動をやりながら役者をやっていく方法。それと、出会いが音楽だったんだから、役者じゃなくて音楽で遺志を継いでいく方法。そして、最後が今回の決意となったわけだけど、全く音楽をやめて、優作さんが色々教えてくれたことを反芻しながら役者をやっていく方法。結構色んな角度から考えて悩んだよね。だってもう34だしね。でも、フッと出てきたことなんだけど39までにこれをやりとげたいって思ったんだよ。だから、お世話になったとか、義理だとかっていう感情論だけじゃない。それだけで自分の人生決められないから。キッカケはそうかもしれないけど・・・・・・だから自分はどうやって遺志を継げるかっていうところで、優作さんが死んだ39までに何とか白黒つけたいんだ。あと5年で賭けてみようと思った。何回か役者の現場を経験しているから、どれだけ大変か分かるから、中途ハンパではやりたくない。やるんだったらトコトンやりたい。例えば、音楽とフラフラしながらやってて、39の時になって、中途ハンパに時が流れたっていう風には絶対したくない!!後悔したくないんだ!!どっちかに決めるべきだと思った。何とか39までに優作さんと同じところまでいきたいと。モチロン向こうの映画に出ることが最終目標ではないけど・・・・・・・一つの夢としてデ・ニーロに会いたいっていうのがある。”日本に松田優作という男がいました。あなたと一緒に映画を作りたかった。あなたとのことを残念がって亡くなりました。その後、自分が彼の遺志を継いで、ここまできました”って会ってデ・ニーロに話したい。モチロンそれが最終目標ではないんだけどね。何度も言うようだけど、自分が続けてこれたのは優作さんとの出会いがあったからだと思う。一回自分を生き返らせてくれた人に対して、俺も何か返したい。優作さんが聞いたら、今回の決断は喜ばないかもしれない。でも、34から再スタートするためには、どっちかに絞らないと無理だと思ったんだ。
優作さんのお葬式の時、火葬場に向かうバスの中で色々なことを考えていた。外を見ると雲がかかっていた。頭の中はゴチャゴチャになっていたんだ。そうしたら雲がさけて太陽の光がバーッと差し込んできたんだよ。もう、眩しいくらいに。その時なんか優作さんが答えてくれるように思ったんだ。その後ツアーの残りがあって、ツアーに出た。新潟から秋田に向かう列車の中だったんだと思うけど、今後のことをずっと考えていて自問自答をしていたわけ。さっきいった4つの方法論の中で、どれが一番いいんだろうって。どうやって決めたらいいんだろうって。その時も外には雲がかかっていた。それが、火葬場に行った時と同じように、雲がさけて太陽の光がバーッと差し込んできたの。エッって思ったよ。またかって。ああ、これはもう確実に優作さんが何か答えてくれるって。その時にイタズラ気分で、試すというか・・・・・・凄く失礼だと思ったんだけど。本当に今見てくれてるんだったら答えてほしいって。今、自分が考えてる4つの方法論の中で、一番極端な例で、音楽をやめて役者でやっていくことを今ここで俺が決心したら虹を出してくれますか?って心の中で言った。それでカウントまで数えて”ワン・ツー・スリー”で見たら、山にバァーッと半円の虹がかかったんだよ!!もうア然としたよ。それは偶然かもしれない。偶然なら偶然でそれでいいけど、俺の中ではこれで決めたっていうのがあったんだ。自分の中では、そういうことが今までつながってきてたからね。
今思うと、全ての偶然が必然になっているように思える。まさか本当にこんな決断を自分がすると思って思っていなかったからね。音楽をやめるなんて思ってもみなかったことだから・・・・・・・。
裏切りと思われても弁解はしない。
今後俺のやっていく様を見ててほしい。
以上が石橋凌が語ってくれた解散までの経緯である。しかし、13年間走りつづけたARBはいったい何だったんだろう。ARBが今まで歩んできた険しい道を考えれば考えるほど、いくつかの疑問がわいてきた。
―――今、ひとまずの目標っていうのは優作さんが死んだ39までに、優作さんと同じ状況に自分を持っていきたいということなんですか?
「いじわるな人だと松田優作になりたいんですか!?っていうんだけど、あの人と同じ方向にいったらかなうわけないしね。まして、あの人になるつもりはない。自分の方法論であそこまでいきたいと。その為には5年間っていうのは短いと思っている。遺志は継ぎたいし、思いをとげたいと思っているけど、自分に対してやりたいと思っている。優作さんに殉ずるつもりはないよ」
―――もし松田優作という人物が亡くなっていなかったら今の状況というのはありましたか?
「ないだろうね」
―――そうすると1人の人間が死んだことによって変わったわけですよね。そうすると今までロック・ミュージシャンとしてやってきたことは何になるんですか?
「でも同じだよ、それは。気持ち的には何も変わっていないし、変えるつもりもない。今まで通りのモノを作っていくんだよ。表現者として、音楽の場から映画の場に移るだけだよ」
―――昔インタビューでこう答えてくれましたね。”ARBは俺1人のものじゃない。みんなのものだ。もし俺がARBをやめてもARBが育っていくのを見ていきたい”って。でも結果的にはARB=石橋凌ってなったわけですよね。
「でも、俺が実際、じゃあ解散しようって言ったわけじゃないからさ。新しいヴォーカルを入れてまでやりたくないって。自然にメンバーから出てきた結果だったから」
―――でも凌さんはずっとARBという看板を背負ってきたわけですよね。
「あのね、よく周りの人とかに言われるんだけど”みんなARBをアテにしてきたんだよ。みんなガンバッテきたんだよ”って。でも、俺は今まで”俺についてこい!!”なんて言った覚えないよ。ハッキリ言って。”俺たちを頼って生きてくれ”っていったことない!!俺はこういう風に生きていくから、あんた達もそういう風に生きていったらって、歌で伝えただけでさ。ARBが終わるから"私はどうしたらいいの?”って言われても俺は分からないよ。ARBは宗教団体とか応援団じゃなかったはずだからさ。ミーティングする時にそういうこともあったわけ。俺達はボランティアじゃない。モチロン好きなことをやっていってくれってファンへのメッセージもあったよ。みんながそれぞれの仕事を持って刺激しあう。それはサラリーマンだろうが学生だろうがいいんじゃないかって。俺達を頼ってくれとは言った覚えないよ」
―――でも、ファンの中には頼ってきたわけではなく、凌さんと同じように刺激し合って一緒に何か作っていこうと思ってた人もいると思うんです。そういう人達にとって今回の凌さんの決断は裏切りと感じるんじゃないですか?
「・・・・・・・それはだから言葉では言えない。弁解するつもりはない。裏切りと思われたら、やっぱり裏切りだろうしね。ただ、さっき言ったように今までやり続けた気持ちで今後もやっていきたいし。映画という現場に変わるわけだけど、精神的には変わってないよ。今は何も言えないよ。これから先、俺がやっていく様と結果を見てくれとしか言えない・・・・・・・」
―――ARBがロックというフィールドの中でやり残したことがあると思いませんか?
「あるよ!!いっぱいあるよ」
―――悔しくありません?
「悔しいよ!!でも今回の決断は自分の中でそれに値するぐらいの大きな問題だった。だから、今まで抱いていた夢を断ち切るしかなかったんだよ。」
―――そうすると、ファンから裏切りと見られてもしょうがないという風に考えている部分はあります?
「もっと広く見て欲しいんだ。一人の命と一つのロック・バンドのことをココで照らし合わせるのは違うかもしれないけど。俺も優作さんが死ぬの分かっていたら、死ぬなよって言いたかったわけじゃない!?でも亡くなった。ファンの人達もARBやめるなって言う。でも実際解散してしまう。そこで考えて欲しいのは自分は生きているんだってこと。生きている自分はこれからどうしようか、何をしていこうかってことなんだ!!俺は音楽をやめるけど、役者という仕事でスピリットは変わらずに俺自身は生きていくんだ。その様をファンの人達に見せるしかないね。」
このインタビューで石橋凌の現在の真意をどれだけ理解してもらえたか分からないが、ARBの解散はバンド・ブームとか、現在の音楽状況に対する敗北ではないことは分かってもらえたと思う。インタビューの中で”あなたは自分のことを何だと思っていますか”と聞くと彼は"パフォーマーだよ”と答えてくれた。彼はミュージシャンでもアクターでもなく"一表現者”としての道を歩き始めたのだろう。そして"スピリットはストリートに立ってた時といつまでも変わらない”と言ってくれた。一表現者石橋凌の新たなる旅立ちを見守っていたい。’90年10月27日代々木オリンピックプールのライヴを最後にARBのドラマは終わる・・・・・・・・・・。
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